『今夜、世界からこの恋が消えても』一条岬

「今自分が積み重ねてきた日々を思い出すことができる。自分の思い出を友達と共有することができる。大切な人と歩んできた日々が自分の中に残っている。」そんな当たり前のことがどれだけ幸せなのか、私はこの作品を読んでまず最初に実感した。もし自分がいきなり昨日のことなど全く覚えなくて、それでも周りの世界は進んでいて、自分だけが取り残されている、そんな状況になったら果たして笑顔になることなどできるのだろうか。この小説のヒロイン、日野真織はまさにそんな状況になってしまった少女だ。

高校二年生の春、事故により前向性健忘と呼ばれる病を患ってしまい、その日の記憶を翌日まで保持することができなくなってしまった。毎朝目が覚めると事故の日以降の記憶はないのに確かに日付は進んでいる。前日の真織が書き残した日記に綴られているその日の詳細を見ることによって何とか今の状況を理解する。自分は一日で何も積み重ねることができない、何もできずにただ毎日が過ぎていく。真織は突如突き付けられた事実に愕然とする。それは今日の真織も、そして昨日までの真織も同じ気持ちだった。しかし、ある日別のクラスの生徒、神谷透がクラスメイトを嫌がらせから救うために、流されるがままに真織に告白したことで少しずつ変化していくことになる。真織は自分が何もできないということを変えるために告白を受け入れる。ただ、透の本心からではない告白を感づいた真織は付き合うために条件を提示した。「”お互い”本気に好きにならないこと。」こうして疑似恋人としての付き合いが始まった。

序盤のあらすじはこの通りだ。真織は自分が記憶障害だということを隠したまま透と付き合いだすことになる。ここまでで私がまず感じたのは初めて二人が放課後の教室で落ち合うシーンの表現の美しさである。教室で真織を待つ透の耳には放課後の部活の音が遠くから響いてくる。中には吹奏楽部が演奏する楽器も聞こえてくるが、教室は孤独で、窓から見上げる青い空は何とも寂しげな様子だ。この状況を演出するのに、まず、作者は「四角く切り取られた青い空は、寂寥じみた音楽に似たものを無人の教室へと運んでくる。」という表現を用いている。「四角く切り取られた」と書くことで窓から見えることを間接的に描写し、「寂寥じみた音楽」とすることで前に張った放課後の吹奏楽部の音が遠くから聞こえてくるという伏線をさみしげな雰囲気から音楽についてまでしっかりと回収している。この少ない文字数でここまでの情景を浮かび上がらせることができる技術に驚愕である。その後、真織は透に自己紹介まがいの大量の質問をする。真織はこの質問の答え一つ一つをすべてメモしていく。また、透の家に真織と真織の唯一の心を許せる友達である綿矢泉と共に行くシーンでは、真織が「男の子の部屋に入るのは初めて」ということでたくさん写真を撮る。部屋だけでなく透の写真も撮ったりする。恋人同士としてまったくおかしいことではなく、泉も「恋人の写真を撮るのに意味なんてないでしょ」と言っている。しかし、真織が記憶障害であることを踏まえるとこの行為の重みが少し変わってくるのではないだろうか。真織は次の日には昨日の記憶はない。だから、透と会ったこと、透の家にお邪魔したこと、それどころか透についての全てを忘れてしまうのだ。だからこそ写真を撮ることが透の顔を覚えておく唯一の手段であるし、せっかく入った恋人の家の様子を再び思い出すことなどできないのである。つまり、今の私たちのように記念に、暇な時見るために撮る写真といった意味合いではなく、自分の過去と未来をつなぐ本当に大事な、かけがえのないものとして写真が存在しているのだ。このことについては物語を読み進めるごとにさりげなく、しかし確かに作者によって暗示されていると思う。ところで、綿矢泉、彼女は真織が事故にあう前からの友達で序盤では家族や学校の先生を除くと唯一真織が記憶障害であることを知っている。その彼女が写真を撮る真織を見て発した先ほどの言葉は、はじめは何とも感じなかったが、よく背景を理解してみてみると、自分自身では真織の病気についてを理解しているため、真織の行動に込められた意味が分かってはいるが、それを透にはばらさないためにあえて発したそっけない言葉だとも考えられると思った。「意味がない」とすることでこの言葉や行動に対する追及も避けていることもそのような気持ちに通ずるところなのではないかと感じた。

公園に初めてのデートでいった二人。そこでついに真織は透に自分の抱える病気を打ち明ける。一方透は真織と一緒に過ごしていくうちに好きになったりしないという当初の約束に反して本気で思いを寄せ始める。真織の記憶障害のことを知った透は自分の胸の内を明かし、そしてこれらのことを今日の日記には書かないでおくことを真織に言う。それは誰かに伝えてはいけないという真織の不安を取り除くため、忘れてもらうために、それが真織にとって一番良い方法なのだと思ったから。ところで、透の家は父と透の二人暮らしであった。母はまだ透が小さいころに亡くなり、それからは姉が母代わりとして面倒を見てくれていたのだが、小説家としての夢を追った姉は、父に告げることなく西川景子という一人の小説家として失踪した。父は仕事の傍ら現実から逃げるために小説を書いていた。賞に応募することもなく、ただ自分が傷つかないために。気が付けば時がたつのは早く、定期試験が近づいてきた。そこで二人は図書館で勉強することにする。しかし、真織は知識を蓄積させることができない。それなのにノートにペンを走らせる真織を疑問に思った透はノートを覗く。そこには上手に描かれていた透の顔があった。そこで、透は絵が「手続き記憶」と呼ばれる脳ではなく感覚に根差した記憶に当たるのではないかと思い立ち、真織に絵を描き続けることを勧めた。夏休みに入った半ばごろ、芥河賞の上半期の受賞作が発表される。受賞候補として話題に上がっていた西川景子は見事芥川賞に選ばれるも、その発表を見た父が、西川景子が娘であることに気づき透に言い寄る。父息子の間で確執が生じたが透の言葉で我に返る父。娘に対して抱いていた不信感も払しょくされ、前に進むことができるようになった。夏休みの最終日、透と真織は花火大会に出かける。二人はたくさん笑い、本当にこれ以上ないくらい祭りを楽しんだ。そして同時にこの瞬間の感情を覚えていられないことに真織は涙を流す。花火が夜空を彩る下で二人は強く手を握る。「どこにもいかないでね、透くん」「大丈夫だよ、僕はずっと、日野のそばにいるから」

互いに好きにならないという決まりも下で始まった疑似恋人としての付き合い。しかし月日がたつごとに相手に対しての恋心は増すばかり。正直このような展開の本は山ほどあり、私もこうなるであろうことは予想していた。しかしこの展開の中に意外性を持たせているのがやはり真織の記憶障害という壁だ。透には真織のことしか見えなくなっていた。ずっと君といたい、そう思っていた。けれど真織は朝目が覚めるとやはり記憶がない。そう、二人がとあることをきっかけに急接近して、今までの関係とは大きく変わる、といったありがちな展開にはならない。そこがこの小説の恐ろしい部分であり、読んでいた私はこの先どうやって話を膨らませていくのかの予想ができなかった。というのも、話に急な展開が訪れない以上真織と透の日々の付き合いを書き続けたところで話の本筋が変わってないためマンネリ化が進んでいく気がしたからである。ではどうするのか、それは真織の記憶障害が治るしかないのである。ということは普通の生活を送れるようになった真織と透が二人仲良く過ごしていくハッピーエンドかと思い読み進めていくことになるのだが、その予想すら後に見事裏切られることになるのである。ところで、このあたりで真織が透を呼ぶときの呼び方について少し考えてみたい。真織は一日のはじめに透を見つけたとき「彼氏くん」と呼ぶことが多い。そしてだんだんと二人でいると自然に「透くん」と呼ぶようになる。これは序盤のほうから使われていた表現なのだが、そこがまた伏線としてのちに効いてくるようになる。付き合い始めたことの照れ隠しやちょっとの恥ずかしさから彼氏くんと呼んでいるのではないかと初めは思っていた。しかし彼氏くんと呼ぶことはしばらく関係が続いていても継続されており、なんでだろうかと疑問を抱き始めた。そんなときに真織から記憶障害の告白をされる。これにより「彼氏くん」に込められた意味に、読んでいる読者、そして物語の主人公、透自身も気づくことになる。そう、真織はその日初めて見る透の写真でしか透を認識できない。つまり、昨日の真織にとっては透は恋人でも、今日の真織にとっては全くの他人なのである。そのため、初めて会ったときはいきなり名前で呼ぶなんてことができず、この「彼氏くん」という表現は記憶を失ったことにより生じてしまっている壁を暗示しているのである。この部分ではこのような表現の意味を読者に伝えると同時に先述した真織がしきりに写真を撮っていた意味についても示している。「私ね......病気、なんだ。前向性健忘っていってね。夜眠ると忘れちゃうの。一日にあったこと、全部」この言葉によって数々の伏線を一気に回収し、そしてこのことがどれだけ切ないことなのかを伝えているのではないかと思う。読者は自ずと透に感情移入してしまい、果たして自分が同じように告げられたら本当に彼女のことを思い続けられるのだろうか、と考え込んでしまうのではないだろうか。少し場面が変わって夏休みである。「手続き記憶」を信じ絵を描き続けていた真織は着実に絵を描く技術が上がってきており、それは昨日の記憶がなくなっていても確かに真織の中に残っているものであった。同時に夏休みの間毎日のように透と会っていたこともあってか全く知らない恋人である透を心のどこかでは好きになっているのかもしれないと思うようになる。この二つを並べてみることで実は作者が隠していた意図が読み取れるのではないかと思った。これについては完全に私の感想ではあるが「手続き記憶」というワードをただ絵を描き続けることの意味としてだけ使っていることはこの作者の表現としては何か物足りないのではないかと思ったからだ。では、それは何なのか。私は「好き」という感情は記憶じゃなく感覚として残り、たとえ忘れても、だけども決して全て忘れることなんて絶対になくて、そういった理解し得る存在ではないということを読者にメッセージとして残したのではないかと思った。けれども「好き」の気持ちもただ一瞬で、一朝一夕で染みつくようなものでなく、長い年月をかけて着実に思いあっていくことでやがて深く根付いていくということを物語の中で終盤まで大事な役割を果たし続ける絵を描くという行為をあくまで例題として用いることで伝えようとしたのではないかと感じた。そして夏の終わりを告げるような花火大会。祭りの間透と過ごしたかけがえのない時間を覚えていられない真織。それを自隠したときどうしても涙が止まらない。透の傍にこれからもい続けたい。そう願う真織の気持ちをひしひしと感じることができる本作の特に感動するであろうシーンなのである。ここでは先述した二人のセリフの後に続くとある一文が重大な意味を持っている 。「その声をかき消すように、夜空に叶わない夢の花がまた咲いた。」花火を夢の花と比喩している表現力にはもちろん感服ではあるが、大事なのは”叶わない”とされているところである。そう、詳しくは終盤に繋がっているのだがここでまた一つとんでもない伏線を敷いたのである。「大丈夫だよ、僕はずっと、日野の傍にいるから」この透の真織に対する愛のあるセリフに対して”かき消すように”や”叶わない”といったネガティブな単語を羅列することでこのままでは終わらない、まだ大切なストーリーが後に潜んでいることがよくわかる。物語をひと段落させる際に何事もなく終わらせるのではなく、一見ただ夜空を描写しているように見せかけた細かな伏線を張ることで物語をまた一つ別のステージに持っていく。読者はそれを読み取ることで二人の行く末に何か不穏なものを感じ取り、少し心構えが変わる。この一連の流れをこの一文だけで成し遂げているその技術は圧巻である。

最後の結末にかけては紹介したい気持ちも山々であるがやはりそこは自分の目で、体で感じてもらいたい。本作品はいろいろな話の軸が並行して、そして交じり合って構成されている。記憶障害を抱えながらも恋をしていく透と真織の物語。母が亡くなり、そして姉もいなくなってしまった透の家族が抱えている家族間のわだかまり。最後に真織と泉の物語。全てが一つになって初めてこの作品の深みが生まれるものであると思うし、最後まで恋ならではの甘酸っぱさと記憶を忘れてしまうという切なさの感情を自在に操る巧みな心理描写が非常に美しい作品であった。ぜひ、最後まで読み通してもらいたいものである。